メモアプリ『obsidian』を始めました。
問題は、続くかどうかです。
これで、少しでも頭の中が整理できたり、新しいアイデアが出てきたらいいな…
という淡い期待を抱いていたり、いなかったりします。
ボチボチやります。
メモアプリ『obsidian』を始めました。
問題は、続くかどうかです。
これで、少しでも頭の中が整理できたり、新しいアイデアが出てきたらいいな…
という淡い期待を抱いていたり、いなかったりします。
ボチボチやります。
今日は、久しぶりに『あんまん』を食べました。
糖質を気にするようになってから、だいぶ『あんまん』から遠ざかっていました。
糖質なんて気にしていなかった頃は、「冬は中華まんでしょ!」なんて言って、よく食べていたもんです。
少しの罪悪感を覚えながら食べた『あんまん』は、やはり美味しかった。
しかし、私の記憶にある『あんまん』よりいくらか小ぶりになった気がしました。
そして…これは、確実。
値段が上がっていました。
とはいえ、寒い季節に『あんまん』から立ち昇る湯気をみているだけでも、幸せな気分になりました。
たまには食べてもいいかな?っと、罪悪感を打ち消そうとするのでした。
今日は、ドラゴンクエストⅢのために有給を取りました。
家族に「今日は一日、ゲームをします!」っと、宣言をして、朝からドラゴンクエスト三昧です。
ファミコン版は、今は亡き祖父が一緒に朝早くから買いに行ってくれました。
最初の思い出ポイントは、いざないの洞窟を抜けてロマリア地方に到達したところ。
当時、本当に世界が広がった感じがしました。
次の思い出ポイントは、ピラミッドかな?
当時、仲間が全滅した上、所持金までなくなり途方に暮れていると…
友達からピラミッドにある『黄金の爪』を売れば大金が入るという情報を入手!
急ごしらえのパーティで、苦難の末に『黄金の爪』を入手したことを思い出します。
この経験から、私はレベル猿になりました。
今日は、ちょっと強引におダーマ神殿まで辿り着いたところで終わりにしました。
もう、いい大人なので仕事に差し支えない程度に楽しみたいと思います。(笑)
散歩中のこと。
通りかかった公園から賑やかな声が聞こえた。
声のする方を見ると、高齢の男女が数人。
ゲートボールに興じていたようだ。
「お元気だな…」っと、呟きながら公園の入り口付近を見ると…
『公園内で野球・サッカー・ゴルフは禁止です。』みたいなことが書いてあった。
思わず「ゲートボールは、いいんかいッ!?」っと、独り言!
そういえば、うちのそばの『スポーツパーク』って、名前の公園なのに…
近隣住民からの苦情で、バスケットゴールが撤去されたっけ…
うちの一番上の子は「公園でうるさくするな!って、言われるからゲームをしていれば、最近の子はゲームばかり!と言われる」っと、嘆いていたっけ…
多くの人は、自分が子供だった頃のことを忘れてしまうんだろうな…
大人が我が物顔だから少子化になるのか…
少子化だから大人が我が物顔になるのか…
子どもたちにとっても生きにくい世の中になったなァ~
子供の泣き声を聞くと、胸を締め付けられることがあります。
子供の泣き声に、今はもう、いなくなってしまった幼い我が子たちを投影しているからでしょう。
そして、それは戻ることのできない過去への後悔の念が、そうさせるのではないだろうか。
一番上の子は、よく泣く子だった。私と似ていて、シクシクと静かに泣く。
その子は、もういない。今はもう、大人の仲間入りを果たしている。
ここまでアッと言う間だった。
子供を連れていながら、スマホの画面から目を離さないお父さん、お母さんたちをみると過去の自分を顧みる。
子供の成長は早い。過ぎてしまうと一瞬。
私は、子供の成長をみることのできる特等席に座る権利を得た。
私は、ちゃんと権利を行使しただろうか。
入園式や運動会などのイベントがあるときに成長する訳ではありませんでした。
当たり前のことかもしれませんが、子供は日々成長しているのです。
ちゃんと子供の日々に向き合っただろうか。
そういう思いが、私の胸を締め付けるのだと思う。
幸いなのは、子供たちが大きなケガや病気もなく育っていること。
そして、今のところ親子関係が良好なこと。
「ありがとう」としか言いようがない。
シャンパンファイト後、家族とスタジアムで喜びを分かち合う選手たちの姿。
仕事先でチラチラと横目で見ていました。
私の人生にない。味わったことのない風景。
大谷翔平選手は、自分の夢を実現した。それも、自分の人生設計通りに…。
祝福の中に入り混じる嫉妬する心を私の中に感じ取った。
そして、私の脳内で再生される『かつて天才だった俺たちへ/Creepy Nuts』
いい年をして、胸に何かが込み上げてくる。
私も、小学生の頃、少年野球チームに所属していた。
自分から進んで入団したのか、親から入団させられたのかは忘れたけど…。
まぁまぁの肥満児で足は遅かったし、バッターボックスに立てば目をつぶってしまう。
懇切丁寧に教えてくれる指導者なんて珍しい時代。
野球をプレイする楽しさなんて、誰も教えてくれなかった。
もちろん、すぐに退団した。
「それでも頑張ろう!」という負けん気がなかった自分にも問題はもちろんある。
野球の話だけではない。こんな話をすれば、枚挙に暇がない。
『かつて天才だった俺たちへ』の歌詞の言葉を借りれば、いくつもの分岐点を見過ごしてきた。そして、いくつもの可能性の芽を摘んできた。そして、似たような形に整えられてしまった。
しかし、47年と130日目の私は、いまだに何かを探している。
“まだ諦めちゃいない”って、ことなのか?
その時が来たらかませるのだろうか?
私は、通勤中に電車の座席へ腰を掛けない。
座席の前に立ち、本を読むことが日課となっている。
電車が揺れて、本から視線が外れた先に、こう書いてあった。
「この座席は7人がけです。ゆずり合っておかけください。」
私の前の座席は、向かって左側の端から男性が3人。
向かって右側の端から2人の男性が腰を掛けていた。
残り2人分のスペースの真ん中に1人の女性が腰を掛けていた。
どういう経緯で、この形になったのかはわからない。
しかし、中央の女性が左右のどちらかに身を寄せれば、もう1人腰を掛けることができるのだ。
先にも述べたが、私は通勤電車で腰を掛けない。しかし、その光景に疑問と多少の不快感を覚える。
私が不快感を覚えるのだから、腰を掛けたい人はもっと不快感を覚えるだろう。
いや、怒りに近い感情を抱くかもしれない。
おそらく、中央に鎮座している女性が逆の立場だったら、やはり不快感を覚えているはずだ。
ほんの少し、ほんの少しだけ気遣いをすればいいだけのことではないだろうか。
そうすれば、もう1人腰を掛けることができるのだ。
腰を掛けられた人を1人、ハッピーにすることができるのだ。
そうやって、ひとりひとりをハッピーにしていけば、いずれはみんながハッピーになれるのではないだろうか。
まぁ、理想論かもしれないけどね…。
個人的には、それぐらいの余裕はもっていたいと思う。